 |  | 《「痴呆(認知症)」は作られる? 》
前回、第10話では、子供の付き添いとして来院した親について書いたのだが、同じ事が高齢者に対する付き添いの場合にも言える。 診療室に同席していて、医師が本人に話しかけているのにもかかわらずその問いかけに答え始める付き添いがいるのだが、医師とのコンタクトが取れるか否かはご本人との受け答えを通すことで、医師たる者1〜2分で判断できる。付き添う方にしてみれば、患者本人の応答では不充分であろうし、医師に対して失礼になるとの思いもあって自ら話すことになるのだろう。先ほども述べたように、患者本人の理解力、判断力等については医師は即座にわかるものであり、付き添う場合は一歩引いた姿勢でいて頂くのがよろしいのである。 高齢者の対応については、医師とのコミュニケーション時は勿論、普段の家庭内にあってもそれこそ痒い所に手が届くようにして面倒を見ている大変幸せな?ケースがある。(それはそれで大変素晴らしい家庭であり、同居していても、終日ほっておかれるような高齢者からすればそれこそ誠にうらやましい限りであろう。)受け答えについても、本人が答える間もなく全て周囲がしてあげる事で当の本人はそれに慣れ、自らしゃべる事をしなくなってしまう。受け答えをまともにしなくなれば、“いよいようちのおじいちゃん(おばあちゃん)はボケて来た!!”と言う事になる訳である。他人の問いかけに対して自ら口を開くことなく、近くにいる家族や付き添いに助けを求めるべく黙って振り向くようになったなら、本格的な「痴呆(認知症)」の始まりである。 あるいは、耳が聞こえにくくなって人の言うことが聞き取れなくなって来ているのに、“他人の言っている事が理解できない。”即ち、“ボケて来た。”とするようなケースも散見するのである。 家族にしてみれば、高齢者の一挙手一投足が遅く、ぎこちなく、特に忙しい時等は余計にイライラするのは良く理解出来るのだが、一呼吸も二呼吸もおいて対処することが高齢者の「作られるボケ」を回避する上で大切なのではなかろうか?“手出し、口出しをせず、じっと見守る。”とは子供への接し方で良く言われるようだが、高齢者にあっても真実である。
《患者さんの「わかりました」は要注意 》
人と人とのコミュニケーションは誠に難しい。知人、友人との何気ない会話であったとしても、当初は考えもしなかったが、後から考えてみると実は意思疎通が図られていなかったとの体験を誰しもが持つ。コミュニケーションの基本は言葉であり、言葉が言葉として通用する為には“文化や経験を共有する必要がある”とするなら、人が相互理解に苦しむのはむしろ当然の帰結であろうか。 特に医療にあっては、医療側の持つ情報が専門的かつ圧倒的に多量であるから、患者さんとのコミュニケーションにしばしば不都合をきたす。情報のやり取りがスムーズに行く為には、情報元即ち医療側が簡潔、的確に発信する必要がある。簡潔、的確の要諦は、“こんなわかりきった事までは・・・・。”と思えるレベルから発信する事である!!“わかりきった事”あるいは“説明するまでもない事”とはあくまで我々医療側の論理だからである。一方、受け手の患者側については、しっかりしたアンテナを備えて受診する事が必要となる。そうでないと、“あの患者は生半可な知識でわかった積もりになっているが全然わかっていない。”となり、逆に、“あの医者はわかり易くきちんと説明してくれない。”となってしまう。 最近は患者の高齢化が進み、ご多分にもれず我がクリニックにもお年寄りが訪れ、待合室はかまびすしく、誠に活気があって喜ばしい。(整形外科は他科に比べ全身的に具合が悪い方は少なく、比較的元気な?お年寄りが多いのである)ところが、高齢者に対する説明は特に神経を使い、また根気を要する。わかり易く、忍耐強く説明したと思い、患者の納得顔での「わかりました。」を聞いて安心していると、診察室の隣で全く同じ事を看護師に聞いている声が聞こえてくる。単に心配性?で、同じ質問を看護師更には受付係に言わば確認している方もいるのだが、そうではなく、結局は「わかりません。」なのである。 後日再診した際、説明した事が半分も理解されていないことを知り、改めて愕然とするのだが、そこはプロとしての矜持もある訳だし、ひたすら笑顔で相勤める事となる。逆に、いささかきつい調子で切り出すと、“患者は弱者なのだから”と都合の良い隠れ蓑を持ち出されてしまう。 医師の言う事が理解出来ていない事もわからずに“わかりました”と返事をしてしまう点についていささか思いを至し、多少なりとも自らの病気と向き合って頂きたいと考えるのだが・・・。
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